〜 自分の内に吹いている 風の響きに耳を澄ます 〜

エッセイ「おそうじから暮らしの宿へ」

エッセイ


おそうじから暮らしの宿へ (2004秋〜2005春)



もくじ

  1. 休むこと・やめること
  2. おそうじをはじめよう
  3. 暮らしの宿
  4. 波照間島へ


1:休むこと・やめること


秋から年の暮れにかけて、植木屋はとても忙しいのですが、
正月が明けると手入れの仕事がなくなり、造園仕事(石組みや土掘り等の力仕事)
が中心となるため、非力な私は長い冬休みに入ります。

庭仕事が冬休みの間、PooLの活動も寒いのでお休みしていました。
そしてこの休んでいる間に内面での大きな変化がありました。

それまでほとんど休みなく、ずっと何かを企画しては、忙しく常に「どこか」に向かって走り続けてきたのでしたが、「ちょっと冬休み」とふと立ち止まった瞬間に、しずかな満たされた感覚が内側にひたひたひたーと広がり、ずわーーんと時空が逆転して、「今ここ」のこの瞬間の私の中に果てしなく広がる時間と空間が存在していることを体感したのでした。

「発信状態(*1)から受信状態(*2)に切り替わった」
というとわかりやすいでしょうか。

そうしたら途端に、「いつか」や「どこか」に向かって走ること
に対しての興味がさぁーっと消えて行きました。

「何かをする」ことから「ただ在る」ことへと、
「何かになる」ことから「ただ今この瞬間ありのままの私でいる」ことへと、
私の興味はすーっと変化したのでした。

そうして2004年に行ってきた、POOLの主な活動であった
「乳母車カフェ」や「おひるねカフェ」や「アイデアの工場」を、
2005年の1月~2月にかけて、次々と終了宣言いたしました。

乳母車もすぐさま売ってしまって、周囲の人々から「おおお」と、
かなり驚かれましたが、私自身はとても静かで満ち足りた気持ちでした。



2:おそうじをはじめよう


「さてと、今の自分をクリアにするために、
まずは自分の外側のおそうじからはじめよう」と、

とりあえず「今の自分」にピッタリこない持ち物を
全て処分するという作業を毎日淡々と行ってゆきました。

自分の外側にあった不必要なものをはずしていくことで、
自分の内側にあった不必要なものがどんどん消え去ってゆきました。
(軽やか~~~~。)

また、片付けるという作業も、
「目標に向かう」という時間とエネルギーの使い方ではなくて、
ただ淡々と、今この目の前にあるものを片付けている、その状態で在る、
そんな感じでいると、そこには「時間」という概念が存在していないため、
作業によってエネルギーが消耗することがない(どちらかというと増すぐらい)。

また少しもいそいでやっていないのに、とても多くの仕事が
あっという間に楽々とできてしまったりするのです。

これについて一つの具体的な体験をお話しましょう。

もともと私は部屋に物がない状態が好き(目につく情報が少なければ少ない方がいい)
だったので、部屋の目に見える空間自体は以前からシンプルだったのですが、
押入れの中では、「机の上がいろんな書類が層になっては、ばさっと紙袋に入れ、
棚のすき間につっこみ、そんな紙袋がいくつもたまっては、
ダンボールに入れ“未整理”と書かれて積み上げられる」
という世界が繰り広げられていたのでした。

しかし、この『自分をクリアにするためのおそうじ』をはじめるにあたって、
「こんなことではいけない。見えないところも全てクリアにしよう!」と
押入れや引き出しの中のモノをとりあえず全部部屋の床に広げてみました。

足の踏み場もない程広がった「モノの海」を眺め、「今日、寝る場所あるのかな‥」
と途方に暮れかけましたが、
「よし!1時間半でこれら全てを片付けよう!」と、
これまでもよくやってきた「目標をたてて気合いを入れる!」という
やり方で始めようとしたところ、ふと、

「何よ1時間半って?、1時間半という時間に何の意味があるって言うんだろ?
全く意味ないやんねぇ」と自分で可笑しくなって、時間の目標をたてるのも、
きれいに片付いた状態(結果)を目指すのもやめて、
「ただ淡々と目の前にあるものを片付けていく」ことにしたのでした。

なんとそうしたらアラ不思議!?
たった1時間ちょっとで見事に片付いてしまったのでした。
しかもその間ずっと「今ここ」にいて、静かでしあわせな満ち足りた気分で過ごしながら・・・。

面白かったのは、以前からよくうちに遊びに来ていた友人何人かが、
この大そうじの後遊びに来て、部屋の見た目は以前と何も変わらないのに、
部屋に入った瞬間、「わぁ、きれいだね」とか「あれ?空気が変わったね」とか
「何か明るくなった」「軽くなった」と言うのです。

そうじをした私はもちろん空気の変化を感じていましたが、
“ 見えないところのそうじ ” をしたことを知らない友人達が口を揃えて
「あれ?何か違うね」と言うのには驚きました。

おそうじってすごいなと思いました。



3:暮らしの宿


こんな風に物や空間がどんどん整理され、シンプルになってゆくにつれて、
自分の内側もどんどん整理され、シンプルになってゆくのが感じられました。

そうしてある程度「おかたづけ」が終わった頃、私の中心の底の方から、すぅーっとしずかに次に向かいたいところが浮かび上がってきたのでした。

それは、私の中を「ただ在ること」で満たして暮らすことであり、
そこから生まれる時間と空間を人々と分かち合うことでした。

それを具体的に実現する方法として、『暮らしの宿』がピッタリきました。
『暮らしの宿』とは私の中で二年程前に出てきていたアイデアなのですが、
まず私が日々心地よいと感じる暮らしをしている。

暮らしの中で必要なものを愉しみながら手づくりしながら、
心地よく感じる空間と時間の中で、静かで穏やかな気持ちで淡々と暮らしている。
そこへ人が時々やってきては滞在して去ってゆく。

私の暮らしの中を人々が通り抜けてゆくトンネルとしての宿。
そのトンネルを通り抜けた人が、日々の発信状態から少しでも受信状態に
切り替わるといいな、そのきっかけになれるといいな。

私が「カフェ」や「宿」という方法が好きなのは、私の想いが空間や時間となって、
空気のようにふわふわとただそこら辺に在れるから。

思えば私はいつも『空気』というメディア(媒体)を通して、
「言葉にできない何か」「カタチにならない何か」を届けようとしてきた気がします。

ところで、このように『暮らしの宿』というヴィジョンが、
これから向かいたいところとして出てきたわけですが、
そこへ向かうために今を生きてしまっては、おっとどっこい、
また「いつか、どこかの何か」に向かって走ることになります。

大切なのは、私が日々心地よく暮らし、一瞬一瞬ただ「今ここ」に在ることで、
『暮らしの宿』は、その延長線上に生まれてくるかも知れないもの。

自分自身が、その空気に満たされてあふれるほどになった時にはじめて、
人と分かち合うことができるのです。

そんなわけで、「ただ淡々と毎日をていねいに暮らす」ということが、
「おそうじ」の次のテーマとして日常に始まりました。

忙しく動き回っていた時には体験し得なかった新鮮なことごとが、
日々のそこここにちりばまってきます。

例えば、朝起きて窓を開け、外の空気のいいにおいを吸い込む。
フトンを上げて、天気がいいと陽に干して、着替え、部屋をホーキで掃いて
ふきそうじをする。部屋の空気が浄化されるのが肌で感じられる。

この1つ1つの作業によって自分の内側もまた浄化されていくのを感じる。
私はこれを「生活神事」と名付けることにしました。

1つ1つの動作や、瞬間瞬間の場の空気を味わいながら暮らすことで、
感覚が静かに研ぎ澄まされていく。

「ただ、生きている喜び」に満たされる。
自分の中に「新しい豊かさ」が花開いていく感じがしました。



4:波照間島へ


そんな風に日々を暮らしはじめたある日、友人主催のイベントに出かけ、
帰ってからふと「自分があとどれくらい生きるかなんて本当にわからないな。
今日イベントでなつかしい大切な友達に思いがけずたくさん会えたけど、
彼らと会うのは、今日で最後だったかも。」というアイデアが、
とても自然に明るく軽やかに自分の中にコトンと入ってきたのでした。

そしてそのアイデアは、その明るさと軽やかさ故に、
その瞬間から私の日常となりました。

その日から日々のなにげない一瞬一瞬が「かけがえのないもの」として、
輝きをぐぐぐっと増したのです。

特に何をするというわけでなくても、
「ただ生きている喜び」に満たされることが以前にまして多くなり、
自分の中に新しい豊かな感覚が光いっぱいに広がっていきました。

こうして、日常のきらめきの中で暮らしはじめたら、
今度はふと沖縄の光と風の中にいる自分がパッと浮かびました。

「沖縄か」と思うと、なぜかドキドキしてきます。
沖縄にはまだ一度も行ったことがないので地図を見てみました。

離島の中の「波照間島」という小さな島の西側に「ペー浜」という名前の浜があるのが目にとまりました。

「何これ、ペー浜やって、あはははは。
プー(POOL)は、ペー(浜)に行かな」と、
急にそれまで全然知らなかった波照間島が気になりだしました。

波照間島は日本の最南端に位置し、台湾がすぐ隣にあるほどの遠い遠い南の島です。
大きさは自転車でも半日あれば一周できるくらいの小さな島だそうです。

人口は約600人。山がなく、なだらかで、砂浜も海も美しくて、女性的な、
おだやかでやわらかな印象の島だと、波照間島に行ったことのある友人が
一緒に地図を見ながら教えてくれました。

たったこれだけのことですっかり波照間島に行く気になった私は、
次の日またボーッと波照間島のことを考えておりました。

そうしたら突然ピカッとひらめいたのです。
「波照間島・・・波・照・間・島って漢字を英語にしたら、
バイブレーション・シャイニング・スペース・アイランド・・・すごい、
なんて宇宙的な名前・・・。この島はただものではないな、きっと。」

ますます「これはもう波照間島に行くしかない」と思っていたら、
さらに次の日・・・。

ふと夜に思い立って、本棚を整理していたら、
あるイベント(*3)で配られた冊子が出てきて、
そのイベントでもらったチラシが数枚入っていました。

ちょっとチェックしてから処分しようとパラパラと見ていたら、
その中からはらりと1枚のチラシが床に落ちました。

ひろってみると‥
『HATERUMA—波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』
(コルネリウス・アウエハント著)という
オランダの文化人類学者が書いた本の紹介のチラシだったのです。

「ひぇ~?!!!」もうビックリです。
何かが私に「行け、行け」と言ってきているような気がしてなりません。

思えばいつも私は、こんな風に何かに導かれるように、
ピカーンと光った方へ進むようにして生きてきました。

自分の内面で求めるものが明らかになると、
必ず具体的な「お誘い」がピカーンとやってくるのです。

そういうとき、私はたいてい何の迷いもなくその誘いをチョイスして、
移住したり、新しい仕事に就いたりしてきました。

そろそろまた動く時が来たのかもしれません。(つづく)



(*1) 発信状態:
何かを外に向かってやる、未来に向かって動く、という風にエネルギーが外側に向けられている状態。「今ここ」にいられることが少なく、ストレスが多い。感覚よりも思考をよりどころとしているため、五感で世界を味わうことが少ない。

(*2) 受信状態:
「今ここ」にいて、エネルギーが内側に向けられているためストレスが少ない。自分の中心とつながっているので、エネルギーやポジティブなアイデアが内側から泉のように湧いてくる。五感を通じて世界を味わっているので、満たされた感覚、守られている安心感に包まれやすい状態。

(注3) あるイベント:
龍村仁監督のドキュメンタリー映画「ガイアシンフォニー第5番」関連のイベント。出演者のアーヴィン・ラズロー博士(最先端物理学者であり未来学者でもある)が来日し東京で講演するというので出かけました。



(2006.05)




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