〜 自分の内に吹いている 風の響きに耳を澄ます 〜

ヒロシマナガサキ

ヒロシマナガサキ

今日は長崎の原爆記念日ですね。
午前10時58分。投下を想い、閃光を想い、爆風を想い、部屋で一人で黙祷しました。
11時03分、目を開けるといつもの私の部屋の中。
風が柔らかく吹き、蝉が鳴いている。
平和だなぁ…と思いました。

先週、京都の国際平和ミュージアムで開催された戦争展に行って来ました。

会場の入口に、長崎に落とされた原爆「ファットマン」と
広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の実物大の模型が展示されていました。

見た瞬間、ショックで涙が溢れ、
その場でしゃくり上げて泣いてしまいました。

帰り道、思い出して自転車をこきながら泣いていました。

今、これを打ちながらまた涙が溢れてきています。

今まで原爆と聞いたらキノコ雲や投下後の地獄のような光景を思い浮かべることが多かった。
恐ろしいなと思いながらも私の中では、昔に起こった遠い所の遠い歴史の中の出来事でした。

それが実物大の爆弾模型を見た途端、喉が詰まって、涙が溢れて来たのです。

その三日後に映画「ヒロシマナガサキ」を観た時も、アメリカの兵器工場から「ファットマン」と「リトルボーイ」が運び出される実映像を観た瞬間に、わーっと泣き出してしまった。

帰りの大阪駅のホームでも、そのシーンを思い出して一人でボロボロ泣いていました。

自分でもどうしてこんな風に何度も何度も繰り返し、
思い出しては泣いてしまうのか、全然わかりません。

原子力爆弾の実物大模型や実映像によって、
私の中で落とされた側の「原爆」(結果・被害)だけでなく、
落とした側の「原爆」(目的・意志・行為)が突然リアルになったのかも知れません。

「これの実現を夢見た人がいた」
「これを実際に作った人がいた」
「これを落とすことを決めた人がいた」
「これを運んで落とした人がいた」

意志を持って人がそれをやったのだ。

ということは頭ではわかっていたけれど、
リアルには感じられてはいなかった。

リアルに感じた瞬間、
単純に純粋にビックリして、思考が停止して、喉が詰まって、
…今もまた涙が溢れて来る。

私はこれからずっと感じては泣き続けるのだろうか。
泣くとしばらく頭がぼぅっとする。

それでもいい、と思う。

私は泣き続けようと思う。
感じ続けようと思う。

原爆を想っては泣き、
劣化ウラン弾を想っては泣き、
チェルノブイリを想っては泣き、
六ヶ所村を想っては泣き、
原子力発電所の被爆労働者を想っては泣く。

泣きながら、少しずつそれらと自分とのつながりに想いを馳せ始める。

泣いたって何の役にもたたへんみたいやけど、
泣くことってなんか大事な気がする…

泣きながら、ぼぅっとしながら、ただ感じている。

こんな泣いてばっかりのちっぽけな私に出来ることは、何やろう?
と考えて、やっぱり知ることやなと思う。
知って感じることやなと。

知ったこと、感じたことを身近な人に伝えること、なんかな…。
ひとつひとつ。

(2007/08/09記)




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